十・47 大正元年十月廿八日 東京方面修学旅行記録
第一期生
三十五号
大正元年十月二十八日より同十一月十六日に至る東京方面修学旅行記録
一、 出発前の経過
十月五日
校堂訓話あり。他学年に於て近日修学旅行あるべきことを発表せられし序に、四年生も亦やがて東京方面に旅行あるべきことを漏さる。
十月十日
高橋教授より旅行につき準備すべき、金子、衣類等につき注意せられたり。
十月 日
文部省より許可せられたる由官報に見えたり。
十月廿二日
四年生は舎長を辞し三年生これに代る。
十月廿三日
校長より訓話あり。本校及び各附属校を旅行迄によく観置くべきこと。帰校後の仕事予定のこと、及び引率教官に関すること等なり。旅行の予定及び旅行中の心得は謄写版にすりたるを戴く其の大様左の如し。
第四学年生東京修学旅行心得
第一条 出発の準備
一.紋付、着換、寝衣、羽織(随意)、帯(随意)
二.雨合羽
三.下駄、靴
四.喪章
第二条 一般の場合の心得
一.実地の見聞によりて智識を広め且つ平素学修したる所のものを一層確実にすること。
二.観察したる事項はなるべくこれを記入し帰宿後整理すること。
三.言行に就ては此の際特に注意し学校の体面に関するが如きことあるまじきこと。
四.日常のことは務めて自ら処理し成る可く他人を煩はさざる様心掛くべきこと。
五.万事に当りて敏捷なることを期すべきこと。
六.隊を離るゝ必要ある時は引率教官の許可を受くべきこと。
七.倹約を旨とし浪費のことあるまじきこと。
八.衛生に深く注意すること。
第三条 汽車及電車に関する事項
一.汽車及電車乗り下りの際怪我等なき様注意すること。
二.汽車中成るべく集りて席をとるべきこと。
三.汽車中唱歌を歌ふべからず。
四.汽車中より善く観察をなすこと。
第四条 森田館に宿泊中の事項
一.特別の場合の外は毎日左の時間割による
起床 午前六時
出発 同 八時
就褥 午後十時
夕食後二時間以内随意外出
二.外出の際には必ず三人以上相連れ合ひ其の内少くとも一人は案内を知れるものたるべきこと。
第五条 帰校後日記を整理すること。
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第四学年生東京修学旅行日程
第一日(大正元年十月廿八日 月)
奈良発 午前七時三十六分
名古屋着 午後〇時五分
同上発 一時四十分
多治見着 三時十分 陶器製造所観覧同地宿泊
第二日(十月廿九日 火)
多治見発 午前七時五分
長野着 午後四時二十七分 善光寺参詣同地宿泊
第三日(十月三十日 水)
長野発 午前五時三十分
日光着 午後四時四十分 鉢石町宿泊
第四日(十月三十一日 木)
御宮拝見 午前七時半ヨリ
鉢石町発 十時
中宮司に至りて宿泊す 行程凡そ四里半
第五日(十一月一日 金)
中宮司発 午前七時
日光着 十一時半
同上発 午後〇時十五分
上野着 四時十分 神田三崎町森田館に在京中宿泊
第六日(十一月二日 土)
各学部別々
上野大体の見物 正午迄に帰宿
午後休息
第七日(十一月三日 日)
各学部一緒
諸官省、議事堂、二重橋、楠公銅像、日比谷公園、参謀本部、大臣官邸、大公使館、青山墓地(昼食)、青山葬場殿、
信濃町より電車にて帰宿
第八日(十一月四日 月)
各学部一緒
宮城拝観、文部大臣訓示、新宿御苑
第九日(十一月五日 火)
各学部別々
東京帝国大学、浅草公園、向島
第十日(十一月六日 水)
午前各部別
上野博物館、拓殖博覧会、図書館、
午後各部一緒
音楽学校
第十一日(十一月七日 木)
各学部一緒
聾学校、砲兵工廠
各学部別
植物園、東京高等師範学校
第十二日(十一月八日 金)
各学部一緒
女子大学、盲学校、早稲田方面
第十三日(十一月九日 土)
午前各学部別
九段、遊就館、
午後各部一緒
教育博物館、東京女子高等師範学校
第十四日(十一月十日 日)
休息
第十五日(十一月十一日 月)
各学部別
商品陳列所、郵便博物館、報知新聞社、芝公園、泉岳寺
第十六日(十一月十二日 火)
観艦式を見る
横浜を見物して宿泊す
第十七日(十一月十三日 水)
横浜発 午前七時四十八分
鎌倉着 八時三十三分 鎌倉江島見物、同地宿泊
第十八日(十一月十四日 木)
鎌倉発 午前七時十九分
横須賀着 午前七時四十五分(横須賀行ハ十五日、同日の宿泊地静岡ニ変更)
同地発 午後二時二十二分
沼津着 六時二十三分 同地宿泊
第十九日(十一月十五日 金)
沼津発 午前六時
豊橋着 十一時九分 高等女学校参観同地宿泊
第二十日(十一月十六日 土)
豊橋発 午前九時二分(静岡発午前五時四十分ト変更)
名古屋着 十一時一分
同上発 十一時八分
奈良着 午後三時五十一分
帰校
十月廿四日
本日より廿六日までに各部とも本校及附属を見終る。
十月廿六日
生徒監の注意にて前方より始め居たる茶儀の稽古本日を以て一順終了。夜舞踏会の催あり。
十月廿七日
生徒監より旅行中の心得につき訓話あり。他学年生の助力により各自の準備漸く成る。
二.旅行記録
十月廿八日 月曜日 曇後雨
校長閣下を始め奉り、諸先生及び生徒に見送られて予定の時刻に奈良駅を発す。送る人送らるゝ者、多くは語らず、嬉しさにか悲しさにか怪しの涙は衿を霑ほす。
窓外を横ぎる山、畠、木、草、満目皆黄に、稲を刈る人たゞ鉢人形の如し。
木津を過ぐ博家部の手になりし地質の図は方方に繰り広げらる。我部は予め文学に関することを調べて謄写版に起し配布したれど、見る人もなげなり。此のあたり花崗岩なるべし。
加茂、りうのう菊の白色、葛の葉の黄緑色、
笠置、駅に多く花崗岩を切り出せり。
山と山、清水を左にし、また右にす。行在所の趾仰ぐ隙もなし。水力電気の発電所あり。鉄橋あり。大河原、隧道通過一分十秒。再びトンネル、梅鉢草点々、島が原をば通りぬけたり。車中新聞第一号発刊。
泣いたりや笑ったりやが浮世哉
挿絵の巧妙天下に絶す。
柘植 此のあたり山円らかにして裾長し。
加太 トンネル一、漸く華胥に趣かんとする者あり、トンネル二、
亀山 汽車を乗りかふ。かなりの天気なるべし、日もあたれる様なり。蕎麦の花白し。
かさど、窓外の眺漸く広し
河原田 左も右も山は遠く去りたり。渺茫たる金波の中、日を負いたる穂積のみ所々に黒し。
四日市、十一時五分着す。市を出づれば須臾にして川あり。渡る。流れの下は海なり。伊勢海なるべし。群青色をなす。汽船の黒煙を吐けるも見ゆ。
とみた、雑魚の臭先づ鼻をつく「下り列車が後れましたから十分間停車致します」と車掌が呼ばはり行く。隣室の笑声時々漏る。下り列車来る。汽笛鳴る。再び川を渡る。漬物の圧石にしたき様なる丸き石のみ転がれり。石垣をもかゝる石もて造る、奈良にては見られぬことなり。
桑名、我が部の一人鬼界島の俊寛を演ず。
長島、高橋先生、さきの乗り後れし者の事を車掌に依頼せらる。
弥富、芦をもて一塊り毎にとり囲みたる水田宛ら浮ける島の如し。
蟹江、松の木の所々に倒れたるあり。九月の大風こゝにも吹きしが如し。
名古屋着十二時四十分、大和屋にて昼食、一時四十分出発、先年共進会のありし所を左に見て過ぐ「なるほど、かうすると新開地が賑になる」と感服して見る人もあり。
千種、「柿――、ありのみ――」と売り歩く。「古語かと思ったら」とつぶやくは西の方に育ちし人なり。山なす俵は皆焼物なり。さすがに土地柄と思はる。此のあたり水田少なくして桑畠多し。大方は落葉して、たゞ木の頂毎に三四葉を残す。其の色淡緑にしてつやあり。夏はなほこゝに聊か名残を惜めるものゝ如し。
かちかは、ほうざうじ、此のあたり沖積層なるべし、山の形円らかなり。トンネル二つ過ぐ右に小流あり、水紺碧に石白し、両岸の紅葉将に燃えんとす。トンネル三、更に一、中々長し。又一つ前の長さに譲らず。同車の乗客切りに木曽の美を説く。トンネル。トンネル。又、トンネル。又。又。よくもかく地を穿ちたるものかな、又、ピ―――、闇より出づればこたびは広野原なり。
多治見につく。三時半なり。我が部は清水屋、他の三部は硝子屋に泊るべき事と定めらる。各所定の宿に荷物を置き直ちに陶器の製造所を見に行く、段々になれる窯小山によりて設けられ二棟の家其の麓の方に立てり。家の前には土の山あり、坪計りの水槽あり、小さき窯あり。数多の小なる土饅頭を板の上に載せたるあり、既に湯呑茶碗等の形をなせるを並べたるあり。陶器を製造するには、先づ硅石を粉末とし、絹篩にて篩ひ、これを更に水槽に入れて沈澱せしめ、取り出して適度の分量に分ち、轆轤にかけて形に作り、これを小さき方の窯に入れ、二百度位の熱度にて一度焼き、これに絵をかき、釉を施し家の中にて蔭干にす、然る後、糸尻に土の小摶をつめ、エンゴロといふ円筒状の焼物の中に入れ、小山によりて立てる大仕掛の窯の中に積み上げ積み上げこれを下より熱するなり。案内する者の言によれば一窯に入るる陶器の数凡そ二万、これを積み込むに七日、焼くに五日、冷すに三日を要し、三ヶ月間に二度焼くを得、一窯より凡そ金額三千五百円をあぐるを得と。
小山を越えて下る、時に雨、一滴二滴、
虎渓山行き雨の為に躊躇もせず、傘をとりに帰るもの雨合羽を着に走するもの急しげなり。多治見橋の袂にて待ち合す。雨漸くはげし、行く事十四五町にして赤土山あり、上る、多治見町眼下にあり。永保寺に到る。此の寺は夢窓国師の開山にして建築庭園共に美なり。伝へいふ金閣寺はこれを模して造りしものなりと、開山堂は特別保護建造物に属せり。臥龍池畔、水月場に憩ふ、雨益烈し山を下らんとすれば既に数点の灯火を見る、五時半清水屋に帰る、六時半俊寛の演劇者無事到着す、八時就褥す、下座敷の蓄音機の声面白けれどまたやかまし。
今晩の献立
汁{赤味噌、大根}、刺身{かつを、こんぶ}、平{蒲鉾、おぼろ昆布、●}、猪口、菠薐浸し
二日 曇り朝少し雨降る
多治見→長野
午前四時半起床、出発の身仕度をなし朝飯を終へて宿を立出づ。多治見国長の館跡近くにありとの事なれど、時間なきため直に停車場に向ひぬ。待つ間程なく来れる列車に乗り込む。発車せしは七時三十五分なり。かまど、大井の停車場を過ぎてなほ進むに右窓に白雲のかゝれる恵那山、左窓に白雪を戴ける御嶽あらはれて恰も我等を迎ふるに似たり。中津川のあたり瓦屋根極めて少し。これ冬季雪多き為め特にかくせるなりと、やがて一条の土岐川は右窓にあらはれぬ水清く小石は真白に山のたたずまいまたおもしろし。自然の山水を友としてゆくうち阪下駅につく。岐阜県最後の駅なり。長野県の境に入りて間もなく右手に木曽の御料林はみえぬ、立ちつづく全山尽くうすくこき紅葉にてかざられ其の下を流るる清川渡せる小板橋の風情いはん方なく嵐山などの及ぶべくもあらぬながめなり。この美はしき自然を賞しつつ進む我等の愉快何物かこれにたとへん。野尻駅をすぎて直に右手に今井兼平の城趾あり。名さへをかしき須原駅をすぎたるは十時廿分。名物花漬を売る。いよいよ寝覚の床は近づきぬといはれてみなさわぎつつ左窓に集る。広やかなる石の床あり。下は青き渕にて材木あまた流しあり。例の小高き岩の上に小宮あり。誰を祭るにか規模極めて小、いかなるいはれありて寝覚の床とは名付けんきかまほしき心地せり。上松あたりまでの景色はわけてよし。身は全く画中の人のごときかんあり。トンネルをいでて直に左窓下にかの名高き桟橋はあらはれたり。あれよといふ間もなく半は紅葉の中にかくれぬ。車の進み今少しおそかりしならんにはと思ふもせんなし。木曽福島駅につく。義仲の墓は光禅寺にあり。菩提寺徳恩寺は宮ノ越駅の近くにありときけど已を得ざればそのままにすぎ去る。その他巴が渕など義仲夫妻に関する名所をよぎりて薮原駅につく。海抜三千〇三十三呎高くも来ぬるものかな。松本駅につきたるは午後一時五十分。師範学校より男女職員数名来られ松本名勝の絵はがき及び梨などめぐまれぬ。一同はふかく感謝の意を表してゆきぬ。進み進みて長き白阪トンネルをすぎて汽車はとまりぬ。をばすてをばすてといふ駅夫のこゑに一同たちあがり山はいづこぞ、名をききて車をかへしたる人もありしときくものを、されど今我等は見学すなれば一事をも見のがさじとさわぎてみれどそれらしきものもなし。向にしげれる一むらこそそれなれ、さゝやかなる亭は月見堂なりと同車の人に教へられて初めてうなつかれぬ。名にたかき田毎の月もすぐ停車場の下にてまのあたりみるを得て嬉しかりき。前方を見渡せば広々たる平野にして其中を一条の川うねりうねりてながれゆく。此の辺一体を川中島といふとぞ。駅を発してよりは下りにて車の進みもはやく走りはしりて長野につきたるは四時半なりき。一まづ旅館ふぢ屋に入り荷物ども置きて直に善光寺にまゐる。日は全く落ちて四隣小暗く楼門をくぐりし頃はみえわかぬまでになりぬ。夜の善光寺はまこと静かにて本堂にかすかなる灯火のかかやくのみ、いりてみ仏をがむもゆめのやう。日本全国にその名高き善光寺も時間のために制せられてゆるゆるみるを得ず残り惜しくもたゞその建物の大体をみて引かへしぬ。道の両側には土産もの売る店旅館など立ならびていとにぎわし何れも参詣の人を頼りに生計をたつるものの如し。途中苅萱堂による。堂の左側に苅萱道心、石堂丸、千里御前の墓あり。堂の様など高野のそれとは似たり。宿にかへりてまづ湯に入りてその疲れをなほし夕飯終へて床につきぬ。
第三日(十月三十日)
起床三時、昨日晴れて喜びしに、今日はまた曇りぬ。五時三十七分長野駅を発す。町は未だ深き眠りより覚めず。見あぐれば残月淡く雲間にもれたり。汽車はゆるぎ出でつ、浅間山は雄然として左窓に聳ゆ。天明の昔大噴火を起して惨状を極めしより、爾来幾星霜、しばしば火を噴きて現在盛んに活動せるなり。されど折しも山頂雲に掩はれたれば、天になびける噴煙は見るを得ざりき。やがて白雲濛々たる山上より曙光出でゝ下界を照す。雲か山か、山か雲か、むらくもはわくかとすれば早く散じ、散るやまた集りて、為めに山容分時も同じからず。
続く一帯の日本アルプス、亦雲のために見えず。屋代にて夜は全く明けはなる。山麓の孤家より炊煙ゆたかに立ち上れり。楓錦の色露ををびて更に光沢をそへ、昨日と変らぬ眺めながら、趣深く捨て難し。知らぬ間に上田、大屋など後になりぬ。眼下一帯桑田の多きを以て、養蚕の盛んなるを知るに足るべし。
今し汽車は千曲川に沿うて急行す。沿岸の紅葉愛すべきあり。落葉松右窓にうちつゞくと見る中に、女郎花、われもかう等何処も変らぬ秋の七草、宛然植付けしが如く、風にそよぎて蕭々たり。とする程に、あたりの光景やうやく雄大広漠たる原野と変じ来り、黄了せる落葉松の間を小松の点々色彩せる、紅山に倦める目の興味深く覚えし。汽車は徐々に行く。高山遠く去つて眼下丘の如きものあるのみ。
沓掛を過ぎ軽井沢に着す。時正に八時三十分。今や身は三千八百呎の高地にあるなり。草津温泉なども遠からじとか。この地夏は避暑の客多きよし。殊には晩秋の涼一際なり。機関車は電気仕掛とかへられぬ。やがて碓氷の峠を越えんとはするなり。此の峠四哩間に二十六のトンネルありとぞ。文明の長器は今や徐々として峠にさしかかりつ。第一に入りしは碓氷隧道なり。三分を費して出づ。出づれば木曽にも増したる峠の秋色。先づ人の目を眩ましむ。碓氷の奇、碓氷の美は、これより始まらんとす。然して右窓紅葉山の後方に、一段高くニヨキニヨキとつき立ちたる巨人の如き山あるは、実に妙義山なりといふ。「あはれ彼の紅葉よ、やよ友一句なからずや」といふまもあらせず、輪車すげなくつと隧道の中に入り、あなやと思ふ間に出でて、錦の山はまた眼前に迫る。トンネルを過ぐる程山容少しづゝ変じ、とぎれてはあらはれ、出でてはかくるゝ其の妙、その奇、我はここに筆を擱きて短きを恨みぬ。
九時五分身は峠の真中にあり。とみれば右窓山間に渓流かゝりて、紅の水ながるゝかと見え、たよりなげの橋梁、わたる人を待ちがほなり。右窓は趣き変じ来りて、峠を下ると共に紅の色漸くうすし。奇形の山は連りて後方にあり。近くは紅葉の山あり。杉並木あり。人家あり。眺め来れば道の小草まで趣き深しや。
九時二十五分横川につきぬ。こゝに峠は全く越え終りしなり。数駅をすぎて高崎に乗り換ふ。当地は、女流文学者羽取市紅の出でし処。市紅は天明年間に於ける浅間山大噴火の惨状を、和文もて書きたる人にして、浅井了意の明暦大火の文と相並びて雄健なる筆を尊るゝなり。十時二十分列車来る。車中は一しきり名物竹の子餅を食ふにいそがし。妙義山を後に残して榛名赤城を左窓に見つゝ、伊勢崎を過ぎ山前駅もこえぬ。左の方沿岸人家稠密せる中に、二層楼の大きなるが目につく。昔日足利学校の跡なりと。朝高山をよぎりし身は、今や関東平野の人、四顧眼を遮ぎるなく、ひとり筑波山魏然として蒼天を摩せるのみ。やがて弓削道鏡が左遷の趾なる小金井に至る。そゞろ王朝の歴史を忍びて、彼が罪のほどをならしつ。瞬く間に宇都宮、鹿沼を過ぐ。やゝあって左に蒼然たる杉並木見ゆ、これ日光街道なり。とかくして汽車は日光に着す。五時前なりし。直ちに導かれて小西館に旅衣をときぬ。
十月三十一日 雨天
夜来の雨あし繁くてや大谷川の水の音よべにも似ずあはれ今日の登山如何あらむと胸まづとどろきつ。或は「いないな雨中の登山こそ却つて興多かれ決死隊にても募りなむ」と叫ぶあり或は「金剛山も下駄こえせし女丈夫なじかはこれしきの雨に」とりきむあり、噂とりどりにいとかしがまし。
とかくする程に本部よりの命伝はりぬ「山上は寒さもはげしくまた昨夜来の降りこみにて道もなかなかあしかりなむ御宮の拝観は予定の如くなすべきも中宮祠行きはしばらく見合すことに決定す、其のうちとも空さへ晴れなば臨時の処置は如何様にも」とのことなりき。折角ここまで来つるものをとのわれ等の恨みはさるものから誰をかこたむよしもなく空しく袋の口をくくつたりといたり本意なげなるさまいとをかし。
あわたゞしき第二の伝命またいたれり。「中宮祠行は別とすべきも兎に角今日一日は当地に滞在すべし附近には製銅所二宮尊徳翁の墓等ありさる方に詣づるも得るところ多かりなむ。東京へは明日午前九時発にて午後一時すき上野着の事とせん。」とのぞみいといとはかなしや。雨またをやみだになし。
出発の時刻は来りぬ。今はたゞ東照宮の拝観にとのみ立ちいづる小西屋番傘の行列をかしく長蛇の如し 日光の仮橋をのめりゆく。鬱々たる老杉は空を●し怒れる大谷川は脚下に横はれり 水上三尺半円の虹名けてこれを神橋といふ 世界無双の善つくし美つくしたるは蓋しこのところよりはじまるよし案内者例の口調にてときはじめたる蓄音機めきていとをかしかりし。今はたゞ記憶にのこる一端をそこはかとなくかいつらね今日日記とやらむにものせんとす。
神橋は日光市中より大谷川に架し長さ十四間幅二間三尺古風なる朱塗なり。諸人の通行を禁じたれば別に仮橋を設けて通路とせり。一つに山菅橋と呼び勝道上人山を開きし時山神霊異を現はせし所なりといふ。
是より深沙大王の小祠を右に見て坂路を登れば山王社あり。東照宮祭典の時神輿の旅所なりといふ。
山王社より右折し右すれば輪王寺門蹟あり。今満願寺といふ。建築は明治七年の再建なれば昔時の面影しのびがたし。
三仏堂はこの構内稍おくまりたる所に在り。ふるくは金堂と称し当山第一の大堂なりき。千手観音馬頭観音阿弥陀の三大金像を安置す。所謂日光三社の本地仏なり。
三仏堂の西北にめぐれば相輪塔あり。天海僧正が伝教大師の銘文を写して建てたるものにして高さ四丈四尺上部に金の瓔珞二十七連金鈴二十四個を飾る。
輪王寺門跡を過ぐれば東照宮の表門前に出づ。乃ち酒井忠勝の寄進なりてふ大華表をくぐり磴数級をのぼれば左方五重の塔あり。高さ十七間三尺柱は金襴巻外部は総彩色にて承塵に十二支の彫刻をなせり。
表門は前面四間横二間にして銅葺総朱塗極彩色を施し左右に金色の獅子をおきたり。
三神庫はこのうちに並びぬ第一庫の側面には二大象を刻したるは思ひ切りたる意匠とやいはん
すぐそばなる厩はすがたこそ素木造りの異彩ははなて前面猿と果実との彫刻はこれまた天下の優物なり
番所の西に御手洗水盤あり御影石にて造り長さ八尺四寸幅四尺高さ三尺五寸俗に御水屋と呼べり。
青銅華表南蛮鉄灯籠鐘灯台穂室蓮灯籠其の他諸侯より献ぜし灯籠鐘楼鼓楼等皆このあたりに配置せられたり
なほ進むこと数十歩にして陽明門に達しぬ俗に日暮門と称し精巧を以つて知らる。されと惜いかなこの日頃修繕の由にてかくまはれたるところいと多かりし。ひたぶるに案内のまゝをかいつらぬれば破風造楼門にして二重扇垂木の間は唐花の極彩色を施し軒先には金銀をかけ正面の額は 後水尾天皇御宸筆のよしなほ枡形の梁頭には龍頭を刻し枡形の間は桐に鳳凰の刻物高欄は仙人唐童の智恵遊びのさま奇絶妙絶なり下の枡形の梁頭には牡丹に獅子枡形の間には十哲を刻し柱の鼻張は象頭とす其の下に極彩色の随身あり矢来は金剛柵と称し格天井は狩野古法眼の描きたる龍にして俗に八方睨みといふ其の裏にはまた四方睨の龍ありと
陽明門をすぐれば右に神楽殿護摩堂左に神輿社正面に唐門あり
唐門も亦四方破風造にして正面には唐銅もて恙といふ怪獣を作れり形虎に類す左右の棟には尻切の龍あり破風には許由巣文の彫物承塵通には尭舜及竹林七賢人あり格天井は唐木の一枚板にて雲に天人の浮彫なり両簾は唐木に菊牡丹の彫刻左右の瑞籬は草木花鳥を刻したり
諸門をくぐり垣をすぎいよいよ唐門内間廊下に至ればここも亦朱塗にして甃石の上に渡りの板ぞしかれたる一同は朝からのひたあめにぶつつりしたる合羽をぬき靴をとり衣襟を正し粛然として拝殿に登る是より神官案内せり拝殿は南に面し階段五級一面に鍍金の板金もて貼詰たり殿内を東西中の三区に分つ中央は六十三畳柱は総金漆箔極彩色金襴巻長押の上は桐竹牡丹梅松の草木に鳳凰孔雀金鶏等の極彩色彫物天井は折上格天井にて岩紺青地に丸龍の置上彩色を画く其の形各異なり之を百種の龍と称す又長押の上に三十六歌仙の扁額を掲げたり国歌は 後水尾天皇の御宸翰にて画は土佐将監光信の筆なりといふ東西の御襖戸は金泥地にして竹に麒麟牡丹に狂獅子の画なり何れも探幽斎守信の筆ときく端坐拝をなし首をあぐれば三個の金幣は正面に在り勅使奉りしものなりと翠簾をかゝげて一鏡を安ぜり
十一月一日 金曜日 晴
午前三時半起床、四時朝食、同三十八分の電車にて中禅寺に向ふ。精銅所前にて下りプラットホームめきたる処に入りて火を囲む。夜は未だ明けやらず大谷川の水声のみ高くひゞく。二十分ばかり待つ程にあと組もいたり着きしかば、これより徒歩にて行く。夜もほのぼのとあけそめて、行くてのもみぢ見え出だせり。川に沿ひて上り行けば、やがて幸橋あり。立ちて来し方を眺むれば山すでに奇なり。
馬返しより坂路稍急となる。雨後のぬかるみはなはだし。馬がへしとは昔の名残、今は頂上までも通ふといふ。剣ヶ峰に至れば右方に二瀑懸れり。方等般若これなり。さまで大ならねども日光二十六瀑の一に数へられたり。喘ぎ喘ぎ上りて八時すぎ頂上に達す。平坦なる路を行くこと数町、滝見茶屋あり。音に聞く華厳はそれなりといへば、上よりさしのぞき見るに、前の二瀑に幾何もまさらず。やがて崎嶇たる小径を下りて近づき見れば、そのすさまじさまことにいはん方なし。滝壷を熟視すれば神気もそゞろに遠々しくなるを覚ゆ。こゝに於てはじめてさとりぬ。世にきこえたるも≠ネりと。茶屋にたちかへりてえはがきなど求め滝を後にして進めば程なく中宮祠なり。蒼々たる湖水見えそめぬ。まづ二荒山神社に詣でさて蔦屋にて昼食す。名物霜柱など味はひつゝ山 と水とのながめにあこがれつ。名残は尽きざれど十時三十分帰途につきぬ。こたびは下り坂なり、且、近道をのみ通りゆくに速きこと驚くばかり、紅葉の二片三片、日光をうけてひらひらと散る道の曲よりあらはれいてたる馬上のをとめ、写生せらるゝを見て嬉げに「ウラヲカイテラー」と過きゆくもをかし。
孤●彼方に阿含の滝あれど見るに足らず。木の根岩の根にたよりつゝ走り下るに上りの半をも費さずして何時しか岩の鼻に至りたり。やがて電車を待ち得てとびのれば何時といふ間に昨夜のやどを通り過ぎて正午頃停車場前につきぬ。上野行列車は二時すぎときいて傍なる小西支店にいこふ。
時は来ぬ一同のり込めばやがて汽車はゆるぎ出でたり折からぽつりぽつりと雨はふりきぬ あはれよき折に下山してけりなど喜ひあひつ。
小山駅まではをとゝひ経来し道なり。栗橋あたりより身は武蔵の地を走れり人々労れ果てたれば申しあはせたらんやうにしづかにて只ゆられにゆられつゝ車窓を眺むなり。田端日没里あたりにて日はとつぷり暮れぬ。程なく汽車は都につけり。電灯昼を欺く改札口に立ちたる一行の感や如何なりけむ。電車を待てども折あしく皆満員なり。やむを得ずして徒歩と定めお茶の水を通りて駿河台より神田にいでかねて定められたる三崎町森田館に着す。
こゝは都のうちにてさまで本通りにはあらねども、しかも、電車のうなり荷車のひゞきさすがに田舎者の耳にはわづらはしく聞ゆなり。案内のまゝに通れば室は学部によりてわかたれたり、我か部十八名は二階にて教官の方々の隣室なり、他の三部は皆階下の室。こゝに各おちつきぬ。やがて食事入浴など終ればはや時にもなりぬ、いで数日の労を休めんとて枕を並べて一同臥床に入りぬ。せわしげなる女中の上草履の音耳にうるさし。
十一月二日
午前八時宿を出づ。九時上野着。九時半博物館着。十時廿分博物館を出づ。十時半美術展覧会場に入る。十二時美術展覧会場を出づ。午後零時四十分帰宿。
少しとても降雨こそは旅の衣をぬらして愉快をそぐ怨めしきものゝ第一なれ。昨夜よりぬらされたる道路なれば靴はいかゞ駒下駄はましてなり足駄ならではとて近所の下駄屋よびよせ思ひ思ひの緒すげさせて漸く上野に歩を運ばせたり。さてけふはその大体を見んとの予定なれは西郷隆盛の銅像彰義隊の墓碑を拝するも只式のみにすませ秋色桜のわたりはまして素通りしてやがて博物館に入りぬ。こゝも亦我が組に要ある階上の服飾調度の外は誠通過したりといふ名に止めつ後日を期して出で美術展覧会場に入る。二銭を投じて目録を求め名家の苦心の程を思ひやりつゝ日本画西洋画彫刻の順に従ひ約一時半にわたりて見めぐり各自絵葉書を求めてこゝを出で直ちに電車にのりて帰宿せり。
午後は休息日とて訪問するもあり見物に出かくるもあり手紙を認むるに余念なきもある等随意行動をとれり。
十一月三日
朝八時宿を出づ 文部省大蔵省内務省の諸官衙を或は遠く之れを望み或は近くその門前をよぎりて宮城正門のみ前に至り宮居の方を遥かにをろがみまつりぬ あはれ例年の今日ならましかばと胸のふたがるを覚えつゝみあぐれば千代こもるみ濠の松も何となくくろみはてゝ見え心なしか雲さへひくうたれてあたりいとものさうざうし かへりみがちに辞しまつり桜田門にて雪にそめしからくれなゐの昔をしのび楠公銅像のほとりにて建武の功を仰ぎつゝ馬場先門より日比谷に至りて公園に憩ひぬ かくて近く貴族院 衆議院 海軍省を 遠く司法省 参謀本部をのぞみつゝ 露国大使館 伊太利 白耳義公使館 霞関御用邸 総理大臣官邸を右に左にすぎ行きて日枝神社に詣でつ 更に学習院女学部 閑院宮北白川宮の御やかたもいつしかあとにして青山御所を拝し乃木坂に至りて故大将邸にありしおもかげをしのびぬ げにや大君のみあとしたひて行きましゝ君がかたみのこのやかた 木の間に見ゆる洋館のまど かの中こそ大将が最後の場所ならめ あはれ忠誠無二の故大将生きては古武士の典型と仰がれ死ては武士道の精華とうたはる 辞して青山墓地に至り大将のみ霊を弔ひつ 今も展墓の人十重に五重に打ち重なりて手向の真柳は青垣をなせり 己等亦遥に墓標を拝みしのみにてしりぞき一茶亭に昼食をすませて青山葬場殿へと向ひぬ。
青竹にてしつらへたる総門、白木の大鳥居、一足ごとに胸のせまるを覚えつゝ、御幄舎、祭官幄舎、楽舎と調度どももそのまゝなるを右に左にして葬場殿のみ前に至りぬ。檜皮ぶきの崇高なる御たて物、中に奉安せる御轜車、いづれかかなしき種ならざる。 殿の後に静に止れる霊柩列車、拝しまつるもかしこし。 例ならば 今日はこの原頭に軍容いかめしき干城の士をみそなはすべきをと思ひまつるだにかなし。忍草多き御あと拝し終へて宿への帰途、四谷なる 寺の塙検校のみ墓に詣でぬ。且つその曾孫なる塙忠雄氏にまみえて故人のおもかげをしのびぬるは思ひがけぬ幸なりき
午後五時宿所に帰着。
十一月四日
午前八時出発 各部打揃ひて小石川区指谷町の聾唖学校を参観す学校は閑静なる白亜の建築にして明治八年の創立にかゝり始めは盲唖学校と称せしが近時盲生を以て他にうつし現今は聾唖のみを以て教育せり。一同は二階なる講堂に導かる。
小西校長より聾唖学校創立の起原及び現今の教育法、我国に於ける聾唖学校の創立、発音の教授法、漢字の取扱などにつき御講話あり 終りて生徒三名を呼び出し校長自ら問を発して生徒をしてその答を板書せしめらる、生徒は校長の口形をみて其音を悟りて仮名にて板書す、次に句読をきりて漢字を宛てはめたり、後これを読むに調子こそ異なれ其他は更に常人と区別なし、一生に導かれて各教室を参観す。図画、習字、裁縫は別に異りたることはなけれども読方教授は実に悲哀の感にうたれたり、教室を一周して別れを告げしは十一時、こゝより各部任意の行動をとることゝせり、
我部はこれより御殿坂をくだり白山御殿町なる植物園に至る、こゝはもと館林侯の別墅、白山御殿の地にして当時幕府の薬園なりき、今は東京帝国理科大学の直轄に属し、公開して日々庶人の来観を許せり、園内には各種の植物を栽培し以て学生の実験用に資す、且つ園内西方の区域には庭園あり林泉の布置破る美なり、
こゝを辞して電車にのり上野公園に赴く、時すでに午後一時ともなりしかば、公園内のたるまやに上り各自任意に昼飯をなす、これより拓殖博覧会に向ふ、
場内は大略朝鮮の部、北海道の部、関東洲の部、台湾の部、樺太の部の四部に分ちて陳列す、会場の後部に当りて台湾の生番の家屋、北海道アイヌの家などありて観客の眼を引かしめたり、我等はこれを一瞥して過ぎ、それより直ちに動物園に至る
明治十五年の設置にして今は宮内省に属せり、東西の禽獣鱗介数百千種を集め熱帯寒帯の各地に亙る動物を網羅せり、帰路上野大仏に立寄り暫時休憩す、大仏は万治年間の建造にして高さ二丈二尺紫銅造りなり、時の鐘は其背後に立てり「花の雪鐘は上野か浅草か」といへるはこれなり、これより電車にて左衛門橋に至り松浦伯爵邸の庭園を拝見して帰館す。
十一月五日 火曜日 雨後曇
本日は、予定を変更し、桜田本郷に 行幸啓奉送 次に泉岳寺に詣り高輪御殿を拝し、天文台、紅葉館、郵便博物館、商品陳列所を見るべきことゝなる。
午前三時半起床、五時半出発、電車にて桜田本郷に向ふ。数百の兵士と相対して列ぶ。今日の御出でましは伏見桃山御陵に参拝せさせ給はんとてなり。雨そぼ降りて此の地にも似ずあたりしめやかなり。傘うちしぼめてまち奉ればやがて御旗三四十旈に前と後とを守らせて赤茶色に塗りたる御馬車二輌、音も静かに進ませ給ふ。金もて打つたる菊の御紋章のみはさやかに拝しまゐらせたれど余のことは得覚えず。あはれこれが目出度折りの大御幸ならましかばとは下る頭に各々が思ひ浮べし所なるべし。
泉岳寺に向ふ。湿りがちなる香の煙は低う這ひて徐ろに墓石の間を縫ふ。刃道喜剣信士といふを入口に、大高源吾、寺坂、赤埴立ち列ぶ石碑二尺にも余らねど、魂の凝れるかと思はる。大石父子が墓、内匠頭が墓、こゝに主従は心安う睡れるなるべし。宝物庫に入れば、差物、袈裟籠手太刀、陣太鼓、何れとして昔を語らぬはなし。
ここを出でゝ高輪御殿にまうで拝観を乞ふ。ここは、良雄等自刃の旧趾にして赤坂花の御所を移し給ひしものなり。今は朝香宮様御出であり。来月よりは東宮御所となるべしといふ。
御門前にて暫く待つほど御許ありて入る。恐れながら御縁にかき上ればいと清らなる御部屋つゞけり。ここにて 今上陛下も育ち給ひしとききては恐れ多きこと限りなし。御障子の絵こそげに有り難けれ。雲居の上の御身にも下つ方の有様知し召し給はではとて絵師して殊更に画かしめ給ひし由にて、百姓どもが稲刈る様さては乳児負ひたる嫗が流れに釜洗ふ様などこまごまとかゝれたり。御庭を見出せば遥々としたる芝生が中、松の木がくれに御遊びの道具と覚しき設けもあり。こん月には、勇ましく愛らしき御姿のこゝに交り給ふらん、思ひ奉るも畏しや。御不浄門と申すあり、そのかみ、大石等が骸をここより持出したれば名つくとかや
天文台に行く。思ひしよりも古々しくはかなげなる建物なり。レプソルドの子午儀、赤道儀、日本一の望遠鏡等を見る。偉大なる九天の仕事を針の穴ならねど僅か八吋の筒よりのぞく面白きことかな。
紅葉館を見る、嘗て皇太后の行啓を仰ぎし事もありとか 紅葉山あり、館の名の出でし所なり。
南葵文庫、美しく心地よし、類ひなき清らかなる図書館なりと、げにさもあるべし。
昼食には更科そばを食ふ。膳むし六銭、テンプラ十三銭。
芝の増上寺を一瞥し園芸展覧会を見る
逓信博物館、東西通信機関の発達変遷を目撃するを得て興深し。
農商務省商品陳列館、漆器陶器織物其他数千点数万点もある中を駈歩の様に過ぐ出づれば日既に傾けり。
夜校長様御着京あり、本部の者御迎へに出づ、嬉しさ限りなし。
六日 雨
午前八時三十分旅宿を出で上野へ向ふ。今日も亦雨やまず道あしき事甚だし。博物館に至り予て約せる黒川、関両氏の講話を承はらんとせしに今日は二方とも御出館なかりければ歩を向島に転じぬ。清島町にて電車を下り本願寺に訪づ。雷門をすぎ中店を瞥見して観音の境内に入る。五重塔、仁王も奈良のそれに比すべくもあらず。本堂にいたり須藤先生より種々説明を受く。これより程近く瓜生岩女の碑あり。水族館を見んと思ひしに閉館せられ居たれば詮方なくいよいよ向島に赴かんとす。時にはや正午に近し。午後音楽学校にて一同集合する事となり居りしかば後れてはとて見合しぬ。昼には天どんの試食す。大急ぎにて帰りしに予定の時刻には一時間ばかり間ありければ図書館を参観す。案内者のいふ所によれば本館は未だ完成するに至らず漸くその四分の一にすぎず、明治三十年より八年計画にて漸くこれ迄になりしなり。其の費用実に三千二万円なりと。閲覧室、カード室及び書庫を見る。八階よりなれど三階まで見てあとは見合わせたり。婦人閲覧室は目下二万円の経費にて音楽学校前に木造にて建築中なりと、今はとりあへず廊下に机をならべてこれにあてたり。去つて美術学校に赴き建築中の校舎の外観を見る。宇治鳳凰堂に擬したるかとも思はる。時せまりたれば去りて音楽学校に至る。此にて各学部集合せり。此の日恰も 明治天皇の百日祭にあたりたれば一同は桃山の方にむかひて遥拝せり。程なく当校生徒の管弦楽演奏会開かれたり。こは程なくユンケル教授送別会の時に行ふものの練習なりしよし。終りて特に我等のために独唱合唱などの演奏あり。午後五時帰宿す。
十一月七日
宮城拝観
十一月七日宮城拝観の栄を荷へる我れ等、午前九時といふに竹橋御門前に集まりぬ。やがて一人々々氏名の点呼を受け門内に入れば、松・桜・楓両側にたちならびて、はき清められたる道いとすがすがし。三四丁程進めば右に一棟の西洋館見ゆ。宮内省の建物とか。前には池あり。噴水の力なく立ちのぼるも何となうあはれふかしや。この前をすぎ右に折れて坂下門を左に見、少し急なる道をのぼれば、かなたにお玄関の如き屋根見ゆ。さてはいよいよ皇居よなと、まづ胸とゞろきて、歩むほどに、仕人とよばるゝ人のフロックコートに金釦いかめしくつけたるが二三人、出でゝ、我れらを迎へたまふ。全体二部に分れ、国漢地歴まづ導かれて進む。お玄関と見しは即ち東の御車寄なり。仕人声高らかに、「こゝは東の御車寄なり。文部百官の参内は皆こゝよりするなり。」と。見あぐれば数揩のぼりたる正面に大なる鏡あり。参内する者の衣紋を正す処にやあらん。石段を下り又上れば一面の芝生なる中庭に出でぬ。小砂利しける道をたどりて豊明殿の御前に至る。こゝは臣下に御酒宴を賜はる間、それにとなりて、千種の間は御酒宴後御談話の間とか承りぬ。
格天井には水仙、牡丹菊等極彩色の花模様いと美々しく拝せられぬ。この二間はならびて南面せり。西の間をすぎ葡萄の間といふを拝す。こゝは一の間、二の間とわかれ、あまりお広きやうにも拝せず。一の間には、紫の御椅子一脚に他の二脚はやゝ小さきがいと正しくならべられたり。紫なるは、 皇太子殿下、他は 皇子殿下の御用にて御参内の折の御待合の御部屋なりと聞く。これにならびて西一の間、二の間といふは、太子、公使、皇族方の御参集所なりとか。正殿は豊明殿、千種の間とおなじく、南面す。こゝは儀式の御時、拝賀を受けさせらるゝ所にて軍旗親授も行はせらるゝなり。仰げば正面には、畏くも両陛下の玉座あり。数多の御椅子目もあやにならびたり。殯宮のありしは即ちこの御殿なりと承りては、そゞろ胸ふさがりて再びは拝しも得ず。おそるおそる御前を退きて御庭を出づ。やゝゆけば西の御車寄の御前なり。御霊柩のいでましゝは、こゝよりなりと仕人の委しく語らるゝにつけ、まづ先立つものは涙にて、一同無量の感にうたれつゝ暫しはこゝを去りもやらず。漸く促がさるまゝに幾度か宮居の方をふしをがみつゝ、二重橋奥の橋を打ち渡り、吹上御苑にと向ふ。御霊轜の轍のあともまだ消えやらぬ心地して、ふむ足さへも恐れ多しや。
振天府建安府は外より御説明を聞き、皇霊殿を拝して元来し道にいでぬ。これより旧城本丸趾を通り、平川門にと向ふ。見かへれば、九重の宮居は老松色深くたてこめて、またたちよるべくもみえず。我れ等は、只夢に夢みる心地して、ひたすら今日の栄誉を感激せざるはなかりき。
宮城拝観の帰途、九段阪上なる靖国神社に参拝し、遊就館を見る。日清、日露等の戦役に於ける戦利品、戦傷死者の遺影等、数多陳列せられたるが中にも人目をひきたるは故乃木大将の遺品なりき。 午後、一度宿に帰りて一時より文部省に赴く。楷上の一室にて田所学務局長より左の訓辞あり(別紙)終りて小泉視学官より文部省美術展覧会の出品物につき種々御説明及御批評を承り午後五時といふに帰宿しぬ。
田所学務局長訓話
諸子は数ヶ月後には学校を卒業し、奈良女高師第一回の卒業生として世に出づるなり。此の際に当りて、自分が現在如何なる心得にて職務に従事せるかを語るは諸子に対して密接の関係ありと思ふなり。抑日本の教育の大本は教育勅語之れなり。これを大本として国民は教育を受け、我れ等も亦業を取れり。教育勅語は、法律よりも勅令よりもなほ勝れるものなれば、其の聖旨の貫徹に務むるは最も肝要なることなり。廿三年頃の中等教育の程度は、甚だ低く直接倫理の材料とすべきものなかりき。西洋主義、国粋保存共に相興りて、倫理の基礎定まらず。教育者被教育者共に迷ふといふ有様なりしが、明治廿三年教育勅語下るに及び千古不磨の大本は、其の礎を固うし倫理の材料亦其の基を得て始めて完全なる教育を施す道を得たるなり。彼の米国の文部省の図書館には正面に我が教育勅語を掲げ、以て簡潔にして完全に抱括せられたるものとし諸人に示せり。且「日本に此の勅語あるは長き歴史あるによりて作られたるものなり。故によく実行せらるゝなり」と。天皇の勅語が日本道徳の大本となれるは英の解し能はぬ所なり。又、教育雑誌に曰く「一言一句最も高き教訓なり。一面には長き歴史を有す。将来の発達するは故なきにあらず。今は却つて日本より教を受く奮励一番せざるへからず」と。
教育勅語主旨の徹底は、諸子の務にあり。時世により形は異れど精神は同一なり。忠孝の根本にありては永久変ずべからざるものなり。余は此の意を体して執務せり。なほ智育の側にては日本の教育は日なほ浅く、漸く形をなせるに過ぎず。内容に於てはとても充実せりとはいふべからず。学校は卒業するも実際の用途にあはぬ者多し。(挙例二、)
されば文部省の方針とする所は形式を去つて実質につけといふにあり。而して現今其の実質の程度甚だ低きを免がれず。彼の高等女学校令改正は即ち其の意味を以て行はれたるなり。実科高等女学校の設置せられたりと雖、効果なほ上らず。教育者被教育者共に幼稚なり。教育者は宜しく教育の本領を自覚し、他の評に動揺せず、批評に対する充実せる研究と、自信とを持たざるべからず。本領は自国にあり。教育勅語之れなり。努力奮励せざるべからず。高等小学校に裁縫、商業を加へしは即ち実質につくの一著なり。
彼の仏国の富有なるは堅実なる教育の存するによれり。教育の根本堅実なれば巴里が如何に軽浮なるも動揺を来すことなし。不健全なる思想を排して海外に接触することが必要なり。教育は国富の基礎なり。責任負担の多き代りに楽しみもあり。殊に女子の教育は、男子の及び難き所なれば、女子教育者は自ら経営し尽す所なかるべからず。奈良の静寂なる地に修養せられたる事柄は他日必ず実現せらるゝならん。性質上、智育上不足せるは補ひ第一回の卒業生として奈良の校名をあげられよ。身体を健全にし美事に卒業し、立派なる成績をあげられんことを希望す。
十一月八日 旅行第 日
午前八時宿を出で印刷局に至る。
先づ紙幣の部を見るに、此処にて使用せる印板はすべて銅に剛鉄の渡金を施したるものにして之に赤又は青などそれぞれ所定のインクをすり込み、平滑面のインクは白粉を撒じて丁寧に拭ひ去り、而して後ロールにかくるなり。されど一葉の紙幣と雖も決して簡単なるものにあらず。表と裏との文様の如き各別々に印板ありて表面の精密になるには凹板を用い裏面には多く凸版を用ふと云ふ。更に表面のみに於ても角模様、枠模様など皆一々印板をかへその上にその上にと幾回も重ねてロールにかくるなり。次に切手の裏面にアラビヤゴムをひきて乾燥する室と更に之にミシンをかくる室とに入る。これ等はいづれも年若き女工の業にして、その技の熟練せる実に目さむるばかりなり。こゝを出で端書印刷部を観る。普通の端書二十五枚を一枚とせる大型の原紙五千枚ばかりを大ロールにかけ機械の運転につれて、するすると無数に出来上る様誠に心地よし。次に之を仕立場に送れば数多き女工の手にて一々細密に良否を検し枚数を計りて皆一定の紙に包まる。これ等の仕事の迅速にして正確なるはたゞたゞ驚嘆の外なかりき。
この外官報印刷部印肉製造所などにも入りしが皆たゞ通覧したるに過ぎざれば省略す。
印刷局を出で午後〇時二十分三越呉服店に至る。
三越呉服店は駿河町にあり延寳元年の開店よりこの方、すでに二百七十余年を経たる一大老舗にして泰西最古のデバートメントスーアに比するもなほ四倍以上の古き歴史を有すと云ふ。日々一千五百人の店員を働かせ高壮なる建築をもなほ仮営業場と称して目下更に鉄筋七階造りの理想的営業場を建築しつつあり。先づ三階の食堂に入り昼食をすませて同じく三階なる竹の間に案内され紅茶の饗応をうく。この室は貴賓の休憩所にあてられたるにて在仏日本大使館の一室に模したるものなりとぞ。四壁の下部は皆実物の竹管を用ひ其上部は天井につゞくまですべてあざやかなる極彩色の竹模様なり。室内の装飾器具等に至るまで一つとして竹の図案にあらざるはなく、いづれも粋をこらし美をつくせり。次に二階に下りて路易十六世式と称する休憩室に入りて小憩の間に雑誌三越、三越呉服店案内などを配付さる。それより順次店内を巡覧す。呉服太物類は云ふに及ばず、小間物類、貴金属類、さては旅行用具、室内装飾器具等に至るまでことごとくきらびやかに陳列されたる有様は思慮浅き女子の虚栄心を誘ひ好奇心を満足せしむるに足る。されど又玩具、文房具等に至りては意匠をこらし工夫研究を重ねて真面目に実用を主とせるものも亦少なからず。されば三越は社会に対して利害の両面を有するものと云ふべきなり。
午後 時すぎ帰宿す。
十一月九日 曇天
午前中は各選修科別になり、習字選修生は須藤教授引率の下に天沢山(春日局の墓)湯島(明神)不忍(弁財天)方面に、図画選修生は水木教授指導の下に美術学校を、音楽選修生は校長閣下にしたがひて音楽学校を、裁縫選修生は高橋教授にひきゐられて渡辺裁縫学校を、園藝選修生は折下教授に引率せられて鍋島侯爵邸松涛園、月寒種畜牧場、農科大学等を、それぞれ参観して得るところ多し。かくて一同は一反森田館にかへり、午後一時半より湯島なる教育博物館を観覧し、聖堂を拝す、維新の英傑はこゝにてと思へば転た感慨深し。
東京女子高等師範学校に至りしは三時頃なり、我等は旅行中の楽しき一日として久しく今日を待ちたりき、まづむかへられて設けの応接室に入りぬ。やがて一室に導かれ、畏くも
皇太后陛下御真筆の御色紙、及び御下賜の御幅を拝しまつる栄をかたじけなうしぬ。それより各部にわかれ、校舎を案内せられしが、教室庭園の掃除心地よく、標本機械等よく整頓してわれ等が観覧の便に供せられき。最後に講堂に導かる。一隅に記録、卒業生写真等陳列せられたり、やがて両校生徒こゝに集まり、両校長閣下、並に両校生徒総代の挨拶あり、をはりていろは順に食堂へひかれぬ、心こめられし夕餉の食卓をかこみつゝ、かたりかはしゝは春以来のことゞもなり、折しも御出張中なりし関根教授よりわれら一同へよろしくとの電報をたまはりぬ。
奇宿舎を案内せられし頃は日すでにくらく、たゞ四君子にあやかられたる寮の名に、日頃の友がおきふしをしのぶのみなりき。再び講堂にひかれて茶菓の饗応あり、また学校一覧、絵葉書等分たれぬ、或は楽しき話に、或は面白き遊技に、時のたつをも打ちわすれつ、おどろきて辞したるは八時二十分なりき、くまなき歓待を感謝しつゝ柴宮氏に送られて宿にかへれり。
東京女子高等師範学校は創立はやくして文化あつまる東都にあり、而して多くの歴史を有せり。我が校は創立おそくして由緒ゆたかなる南都にあり、而してまた新らしき特色を有す。かくて彼れは姉、我れは妹、相提携して同じ道にいそしまんことのげに幸なるかな。
拾壱月拾日、日曜日、晴天、(教育品展覧会)
午前八時より神田一ッ橋なる教育品展覧会を観る。本会は帝国教育会教育品研究会の主催によりて成れるものにして学用品、運動具、教授用器械、模型、標本、玩具等精巧にして便利なるものを網羅し陳列せられたり。且つ出品商店出張し価格及効能説明を附し、直ちにいづれの品も求めに応じて売却す。別に参考室の設あり。何れも教育上参考に資せらるゝ事多かりき。拾一時、一同は予定の如くこゝにて解散し各自思ふ方々にと別れたり。
我が学部の有志は、昨夜須藤教授よりの命ありしがまゝに向島に遊ばんと、浅草行の電車に投じつ。
二十分も経しなるべし。雷門と耳に入りたれば、急ぎ下り吾妻橋と覚しきに進みゆく。 人道をまがひもなく渡り終へて、更に顧み長さを考ふるに、凡そ一町半と覚えぬ。左折すれば、口には早や河辺秋景只懐春などつぶやかれて進み行くに、先づ赤練瓦の札幌ビール会社、右方に聳えて見下したり。
まもなく、墨水を東にひきたる源森堀あり、これに架したる小橋、枕橋といふにさしかゝる。こゝより墨堤二十八町は北方隅田村なる木母寺に至り、此の間を向島と称するなりと。徳川家の小梅の邸ときくには、植込の木深きに奥床しさも覚えて、なほ進み行けば、桜樹は堤と共に迂曲しつゝ両側に過ぎて遥かなるを望まる。このほとり三町許りは花時にあたり都下の士女が往来の門戸なりなど聞けど、今は落葉深くしきて秋のあはれそゞろ見えたり。
水上には昔一等蒸気とかいひしといふが今は応分の銭をとりて猶往き来をとめず、をちこちに走る様、おもしろし。十町余も行きけん、三囲稲荷は堤下にありて、其角が雨乞ひの記念をとゞめ、西岸には待乳山の小高きが望まる。万葉よりはじめ代々の古歌に多く咏じ出されしその名、いとなつかしや。
猶北に牛の御前社、長命寺など見えたり。長命寺門前の桜餅は時節にもあらねばと措く。ふと気つけば蒸気の乗場に人さわげるは言問なりき。こと問はん都鳥も見えねど名の床しく、且は今日の目的の一つなる団子を求めんとて立ちよる。団子売る事は明治五年頃にはじまりしなりとか。包整ふ間、川べを眺ればをかし、かたへに釣竿下す都人あり。又行けば寺島村に入りて、白髭神社といふあり。百花園は此の東にありて、文人墨客の筆蹟を蔵し、猶北方木母寺に程もなく、金が淵の紡績場もありなどゝ聞きつれど、時も許さねばと踵をかへしぬ。
たゆくなりし足を早むるにも、なほ●のほとりの様には眼うつさるゝなり。こゝ墨堤の空は晴れて水は静かなり。ところどころの渡し場、また風致を添へぬ。されど堤下にはあらぬ狭斜の巷ひそみ、桜樹の下には数多の小屋ども花の名残りをとゞめて俗気高うも香ひ、水中には対岸の人家煙突の打ち重なりて、山影にかはるなど、昔のさまと思ひ合せては感慨も少なからず。
かの万葉には、角太河原などの名見え、義経記には雨ふりて洪水きしをひたし流れしかはひとへに海を見る如しなども、武蔵野紀行には此河の向ひに安房上総まのあたり見渡さるなども見えしほどの広漠たる河原なりしを、かく堤など築きあぐるに至りしは太田道灌のはじめしなりとも、開府以前なりとも天正二年北条氏の所建などとも聞けど、いづれならん。天明丙午大水の後に修築あり堤の高さも加はる、桜樹も其時重ねて植えしものなり、などもきゝし様なれど、はたその名さへ、角田、あすた、治田、浅草川、荒川などうつり、さまもかくかはりて、ありし昔は忘られゆく世の定めなれば、知るによしもなきにや。
など、かたりゆく中再び浅草の喧囂におどろかされしは、三時過ぎなりき。この一行もこゝにてわかれわかれになりぬ。夜は例の時に皆うちそろひつれば、かの団子をとり出でて須藤教授にもすゝめまゐらせ、とりどりの物語りに時を移しつ。
十一月十一日 快晴
ながしと思ひし旅行もはや残り少くなりてかりのなじみとはいへ十日間も起臥せし東都を去るはいよいよ二三日中となりぬ、さすがに別れがたき心地して急に光陰の惜しまるゝをかしさよ、今日も例の如く八時に宿をいでゝ予定の小石川なる盲学校にゆくべかりしを國語漢文部と地理歴史部との生徒は未だ高等師範学校を訪れねばとて急に七時三十分に出で途に同校を訪るゝ事となりぬ、即ち水木教授の指導にて水道橋より電車の便をかり大塚なる高等師範学校に至る、建物は洋風の木造にして規模大なり、時間の甚だ少き為に内部はただ大走りに走りて校長室、講堂、鉱物標本室、歴史標本室等を瞥見せしのみ、何等目にとまらむよしもなし、たゞ校長室の甚だ広きに驚きぬ。また階上階下の廊下に卒業生一人一人の最近の写真をかゝげて卒業生の現在の状態を知らしむるものゝ如し、是等は現在の生徒の覚悟を大ならしめ且つ勉学の奨励ともなりて甚だ妙なるものゝ如くに感ぜられぬ
直ちにこゝを辞して盲学校に至る、先づ講堂に導かる、折しも町田校長は盲生を集めて新聞紙を読みきかせ居られたり、男女の盲生皆耳を傾けてこれを聴く様のあはれさ見るからに袂のうるほふを如何にすべき。見渡せば女生徒は全生徒の四分の一許りなり総人数は後にきけば百八十名なりといふ。講堂は先づ一見かつて見し聾唖学校のそれによく似て同じく正面の少し許り左と右とによりて忠孝の二幅対をかゝげらる、向つて右は忠にして孝は左なり、右壁と後壁とには盲教育に功労ありし人々の肖像を額面として高くかゝげらる、これも全く聾唖学校と同一なり、やがて新聞紙を読み終はらる、盲生席立ちて体操をなす、五種の運動にしてやむ互に手に手を取りて各教室へと帰る。後我等一行に対して校長御話あり、其内容は盲人と聾唖との教育上難易の比較及び盲人教育の目的、世界各国失明者の歩合比較、失明の原因、盲人の体育の必要、当校現在の教育方法等につきてなり、次に第四学年生の地理、算盤、唱歌等の授業を見る、地理など既習事項を発問せらるゝによく記憶せり、地図なども微細なる凸凹をよく弁へて其地勢を知る、目こそ見えね其感覚の鋭敏なる実に神の如し、書取などの早き、点字をよむの早き我等をして恥ぢしむるものあり、珠算なども巧みにこれを取扱ひて運算する事の正確なる また驚くに堪へたり。校歌のあはれなるは再び我等をして袖を絞らしめぬ。後女生徒のピヤノ独弾あり、琴と三味線の合奏あり 琴は女生徒三人 女の助教一人 三味線は男の助教一人なり、声打ち揃へ指先さかしう小督の曲をかなで出でたる あはれはいよいよ深うなり勝りぬ。奏で終るまでにはげに我等の胸は張り裂けんばかりなりき。彼を思ひ此を忍びて其止まる所を知らざりしなり。後各教室を案内せられぬ。午前は音楽と按摩、鍼術マッサージ等を授くるよしにて是等は皆一人に一人の師つきていとも懇ろに授けつゝあり。生徒も亦熱心にこれを学べり。愛らしき男児の洋服姿に三味線とりあげかねたるさまして奏づるなど自ら人をして泣かしむるなり。点字の印刷を見体操場に至る、こはこの九月に落成したるもののよしにて窓大にして光線を充分にとり床板を選びて塵埃をさけたるが当校長の見る所ありて作られたる特徴なりといふ、三十名許りの女生徒今しもしきりに体操の真盛なり。其技其姿勢はたゞ同情の外なく舞踏などのあはれげなる実にいとほしき限りなり。あゝ盲人教育の困難なるひとりこの事のみならざるべし。其師たる人々の篤志また多とすべきを感じぬ。一週して再び講堂の前に至る。こゝにて茶をいたゞき十時すぐる頃こゝを辞す。途につくづくと己が身の幸多きを謝しつ、女子大学校につきしは十一時半頃なりき。先づ幼稚園を見る、折りしも幼児は皆運動場にて遊び居たり。開誘室には幼児の成績品など列ねらる。教室の左右及び後の壁は高さ二尺許り塗りてボールドとなせり、而して悉く幼児の絵画もて充たさる、この所を辞して食堂に案内せられて弁当を食す。同校より茶菓のもてなしあり、御菓子は生徒のつくられしものなりとか。味美なりき。食後は共同購買会場、温室、フレームを見て寄宿舎に至る 案内せらるゝまゝに芙蓉寮に入りて見る。こゝも家庭的組織を以て知られたる所なり 一家族は二十三名のよしにて階上と階下とに分れ自修室は大小あはせて八室ばかりあり。其他食堂あり炊事場あり湯殿あり。各室は多少の装飾あるも床なく食堂は西洋室なり。いづこもあまり完備せるものにあらず、されどたゞこのあたり老樹多くして土地高く而も広きが故に景佳にして心を慰むるに妙なるは羨しかりき。桜の大木枝をはりて立ちならび春の景色を想はしむ。再び本校に帰り割烹室を見る。設備に於ても むしろ我校に如かざるべし。たゞ広き点に於て勝るのみ。香雪化学館を一週して体操場に至る。建築粗にして見るべからず。家政科一年生の体操を見る。豊明図書館博物標本室をすぎて小学校を見る、壁を塗りてボールドとせるは幼稚園に同じ学校も狭く生徒もわづかなり、女学校に至る同じく生徒数少く校舎も亦狭し、いづれも目にとまるほどの事もなし
こゝを辞して大隈伯邸につきたるは二時二十分なりき、門を入れば瀟洒たる邸内鬱蒼たる高野槇見るからに心気爽快なり、通用口より案内せられてかねてきゝつる御台所を見る、入れば先づ其清潔にして整然たるに驚く、広さは 坪にして天井は半ば硝子張にて周囲に硝子の回転窓さへ設けられて其明るき事従来一般家庭に見る所のものとは雲泥の差なり、かくてこそ清潔は守らるべけれと感服しぬ、 坪の中 坪は土間にしてコンクリートにてかためらる、こゝに西洋式の と日本式の竃とを据へつけたり、銅のながしもこゝにあり、板敷の所には置戸棚あり、諸道具棚あり板は全部取りはづしをなし得るものにして中はコンクリートにして種々の物品を貯ふるに便なり、また作りつけの配膳台ありてこの台の向ひの方は直に他の一室に接し、膳を運ぶに甚だ好都合なるべし、火は悉く瓦斯を用ひ水は皆水道によりて得 電灯は六つばかりありコツク二人ありて朝夕この理想的台所にて山海の珍味を調理すといふ、次に洗面所化粧室湯殿を経て御座敷に案内せらる、十八畳二室つゞきなり 而して其周囲はみな六尺巾の縁にしてこゝも皆畳を敷きつめたり、床は二間許りにして大なる花鳥の幅をかけられたり、欄間は白木の雲形彫刻にして柱は皆栂の木なりといふ室内の端麗愛すべし、静かに障子を開けば音に名高かき庭園は眼前に一幅の活画の如くにあらはれぬ 山と水と老松のさまざま立石のいろいろ樹木のくさぐさ石灯籠の大小、何れも其所を得て風致に富める庭園の限り知られず広ければか自然のそれを見る心地してゆかしとも奥深しとも評すべき言葉を知らず、たゞ恍惚としてあこがるゝ事幾時なりしぞ、促されてやむなく食堂にゆく西洋作りにして前の座敷とは全く其趣を異にす、三間と五間との大きさにして大卓子を囲める椅子はいづれもうるはしきものにして行儀正しく並べり、姿見鏡は二所に飾られて其一はストーブに接す、あらゆる装飾をこゝにこらせり、次に玄関に至る、玄関に入らむとする左右に仁王が威たけだけしく立てるは面白き配合なり、応接室は三室ありいづれも西洋作りにしてストーブの上には姿見鏡あり巧妙をつくせる装飾品をこゝに集めて趣深し、一室には狆の彫刻をかゝぐ、こは 氏の伯夫妻のともに戊年生れなるを以ておくられたるものなりといふ、一室には伯の肖像画をかゝげらる、きらびやかなる椅子は人待顔にテーブルをかこめり、こゝを出でゝ温室を見る、甚だ広くして蘭を主とせり、今や馥郁たる香気を放ちて咲きほこれるなどもありし、大しだはいと珍しう感ぜられぬ、先程より賞嘆おく能はざりし庭園を横ぎりて第二の温室前に至る、こゝには七十の椅子整然として我等をまち卓子上には茶菓のそなへあり、すゝめらるゝまゝにこの席につく、休らふ間もあらで伯は日本服のりゝしき姿にて二人の人に擁せられて我等の前に出で給ふ、一重八重の白菊黄菊今を盛りの風情にて伯の矍鑠を祝するものゝ如し、伯は軽く一礼して有賀博士松平牧野二大学教授をまづ我等に紹介せらる、つゞきて女子教育の必要につきて大気焔をあげらる、簡にして要を得而も語句一々肺腑より出でゝ人を動かすこと大なり、我等常にいはんとして言ふ能はざるを今日はじめて伯の口をかりて出でたる感あり痛快いふべからず、四時三十分同家を辞して帰る、明日は早朝より横浜の観艦式に趣べき予定なればとて九時をもまたで皆寝に就く。
第十六日 (十一月十二日)
三時半起床、四時半出発、新橋に向ふ。今日しも横浜にて挙げさせらるゝ大観艦式を拝せんとてなり。五時五分発車、横浜駅に着したるは六時半なりき。式には未だ間もあればとて、まづ野毛山に向ふ。春はさらなりと偲ばるゝ桜の並木三町をのぼれはやがて大神宮の社前に出づ。境内寂として我行の外に又人なく、顧れば市街海浜一眸の中にあつまりて眺望佳なり。当地唯一の絶景とぞ。道を返して波止場の方へすゝむ。盛装したる紳士貴婦人を満載したる幾多の陪艦船はその雄姿を湾頭に横へつ、何れも浮きたつやうなる楽を奏せり。ふと彼の神鹿の群れ遊ぶ春日野を想うて新しき感に打たれぬ。更に行きて居留地支那町方面にいたる、眼碧き子、纏足の女、邦土にある心地せず、世界漫遊を気取って一週しつ。最後に今日の目的地たる弁天山に達せしは十時近き頃なりき。已にして蟻の如く集ひし人々は、或は山に、或は海岸に思ひ思ひの陣を取れり。 こゝより見渡せばはるかの海上に十二許の艟艨の浮べるを見るのみ。朝日はいづくぞ、笠置はいづれ、百に余る船艦は靄の中にかくれて見えず。時は早けれどもこの間にとてひるげしたくむ折しもひゞく祝砲につゞいて打ちつゞく大砲の音は、海に山に反響して崩れんかとばかり。
「陛下御乗艦」と、一斉にとよめく。水先きの小蒸気につゞく大艦は、これぞ御先頭の海風ならむ。後の檣上に高く天皇旗のかゞやけるは、御召艦筑摩なり。供奉艦平戸、矢矧、満洲も、静かに波を分けてすゝむ。白き煙こゝかしこに挙がる。俄然爆発の音の頭上にひゞくに仰ぎ見れば飛行機の発揚せるなり。「あれあれ」といふ間に音も影も小さくなりて、それも遂に靄中に隠れたり。と見る間に、徐かに降りて波上をかもめの如くに飛びゆく。「横須賀の方よりも来たりぬ」と叫ぶ人なり、風を切り音はさだかなれど姿は見えず。海の方くろずみきたりぬ。時を見れば、十一時すぎたり。名残をとゞめて帰途につく。来し時にもましての混雑。運よきは十一時五十五分の列車に遅れたるは十二時二十分のにて無事帰宿す。午後よりは自由なりしかば、例の如く八方に活動せり。
十三日 晴天
出発時間 午前七時半
帰館時間 午後五時
行先 帝国大学
上野博物館
今朝は徒歩よりいたる。八時ごろ所謂赤門に着きぬ。我が部の主目的は史料編纂部にありつれど、未だ時間には程もあり。さらばとて理科の方へ先づ赴く。拭へるが如き碧空にそゝりたてる煉瓦作りの図書館を右に見、銀杏落葉の散りしきたるあたり過ぎ行きつ。やがて裏口の如き所より入る。造船室あり。軍艦商船等の模型いと多し。次ぎは土木工学標本室なり。水道水源地の装置より汽車信号の説明まで、こゝも亦常識として得るところ甚だ多かりき。
図書館は六部に分たれ蔵書四十五万巻ありといふ。うち岩崎男の寄贈にかゝるマツクスミユラー文庫を見る。教官閲覧室、休憩室、特別閲覧室、事務室等を左右に見つゝこゝを出で、史料編纂部に至る。御馴染の黒板博士にも見えたるいとうれし。やがて導かるゝまゝに入れば階下には経文うつし、行列の図其の他古書画など数多あり。階上にも史料に関するもの多し。一々三上博士の説明による。先づ維新前我が国が、英と仏とに条約を結べる原本を示さる。当時我が国は和蘭語を解したりしかば英とのものは三国語よりなり、ビクトリア女王の親署あり。仏のは日本文は仮名にて認められて、ナポレオン三世の親署あり。これ当時彼の国に仮名の日本語を解する人ありし故なりといふ。何れのにも円形の大なる国璽つけり。日記の原本も種々あり。言継卿のに「天皇のみことのりにはものゝふも従はしめよ天地の神」とあり。これ卿が元亀二年後奈良帝の内勅をうけて、信長の許に使せし時の詠なりと。乃木大将大に感じ、昨年こを書きとめ帰られしとかや。御湯殿の上の日記著者詳かならねど、宮中にて女官は日々これを記す事に定められあり。御湯殿は清涼殿にある女官の部屋、京都の可仕夜の御座の傍にあり。
後桜町帝御日記三十冊、原本は今京都に置き奉れり。其の他无上法院殿御日記、円台院殿御日記等、高きあたりの御手になれるものも少からず。既に書とせられたるものにては、川路聖謨の生涯といふ一巻を示さる。聖謨の孫なる人は今現に淡路高等女学校に校長たり。書中奥方に関する記事多し。其の手蹟も美しく、和歌にも余程長ぜりと見られたり。
なほ時しあらば何もなにも見られんを。いと惜しみつゝ暇を告げ、会議所の横を通りて人類学標本室に至る。案内につれて入れば所せきまで陳列せられたる埴輪、土器、石器等、各国人種の遠き昔の様そゞろにしのばれつゝ、心惹かれ目とまれども、またも時間ちふ追手に追はれ追はれてよくも得見ず。そこそこに立ち出づ。
正午すぎ三十分、上野に着き見れば他の二学部はや約を守りて待ち居たり。やがて今一学部も来りつきしかば、東照宮を背景として記念撮影をなしたり。
再び各部別れて、昼食は程近き西洋料理店にしたゝむ。
博物館に入る。広くして容易に見尽すべくもあらざれば、やむなく其の一部なる衣服什器に関する部を此の程よりも稍委しく観察せり。
午後四時半此処を出づ。明日は立ちわかるべき東都のけしき、さすがに名残惜しからずもあらず。我れも人もたゞ眺めがちにぞある。
十一月十四日
鎌倉方面
兼ねてよりあこがれたる右大将頼朝公が遺跡を探究せばやとて午前九時十分の汽車にて新橋をいでたつ。座して天下の英雄を統御し我国史に一大時期を画したる大舞台なれば地勢は雄偉広大名所古跡を尋ねたらんには古英雄の居城半ば壊れたるわたりに長き蔦の這ひかゝれるを見るべく金殿玉楼の跡をとぶらへばこゝかしこに散在せる礎と共に朽ちんとする朱塗柱など三つ四つ散り乱れていかに腹をたゝしむるならんなど溢るゝ許りの想像をゑがきつゝ十一時二十分頃漸く鎌倉につきぬ。
師範学校教諭桜井氏の御迎へをいたゞき案内せられて先づ五山の第三なる寿福寺を尋ねぬ。停車場より十町許り北扇カ谷に入る道の正面源氏山の麓にあり。開基は政子開山は千光国師栄西本朝禅宗の鼻祖なり。寺域はもと義朝の邸跡なりしかば頼朝の初めて鎌倉に入るや此の地に居邸を建てんとしたりしが土地の狭き故をもて大倉となしたりといふ。竹垣にめぐらされたる松の植込はいとゆかしう覚えたり。その左一丁許りの処に尼将軍と実朝との塔相並びたりときけど詣です。なほ二三丁北にすれば英勝寺あり。もと上杉の臣太田道灌の邸跡にして其の裔なる英勝院禅尼が家康の薨じて後尼となり祖先の地を相して茲に建立したるなりといふ。かの金沢山に狩りくれて村雨に遇ひし折一枝の山吹の花に心を糸と乱しゝやさしの物語は実にこゝにありし時よと思へばたゞそれ美しきゆかしき夢と辿られつ。構内を離れて薮中に阿仏尼の墓あり。住みなれし都をあとにはるばる旅立ちて空しくこゝに消えぬるもあはれ子を思ふ親心よと思へば山鳥はなかねど小笹のさゝやきかなしく父かとも母かともきこえて故郷のこひし。こゝより右に折れ二丁許りにして田をへだてゝ浄光明寺を拝す。こは後醍醐天皇の勅願所本堂は円覚寺舎利殿に次げる古建築にして鎌倉時代末のものならんといふ。其の上に冷泉為相の墓あり。母を慕ひて鎌倉に下り墓の右下なる藤が谷に居りしかば世に藤が谷黄門と称し歌集に藤谷百首あり。浄光明寺は其の菩提寺にて十六夜日記の草稿はこの寺に伝はりしが今はなしといふ。こゝより西北小半里の処に海蔵寺といふあり開山の源翁和尚が伝なりといふ玉藻前が遂に殺生石と化したる話は今の世には決してあるまじき不思議と思ふもをかし。眺めやる其方更に化粧坂を一つ越ゆれば葛原岡神社なり。秋をもまたで此の岡べに消えたる人の如何に口惜しかりけん親しく尋ねて弔らはまほしけれども思ふに任せぬいそぎの旅限りなき感慨を峰の雲に残して師範学校に向ひぬ。整頓せる校内立派なる成績物を見茶菓のもてなしさへ受けたれば厚く謝しつゝ正午も過ぎしものから八幡神社前の茶店に憩ひ昼飯を喫す。
再び桜井氏の案内にて円覚寺方面に向ふ。先づ八幡宮に詣で頼朝の偉業を仰ぎ大銀杏の苔をなで静御前の貞操を忍びつゝ北に進めば巨福呂坂に出づ。七切通中最重要なる口にして新田義貞も義興もこゝより入らんとして敗られしといふ。今は低く切り下げられたればなだらかに遠く下りて苦しからねばいつしか建長寺に達しぬ。開山は大覚禅師道隆にして禅宗建長寺派の大本山なり。鐘は鎌倉に於て最も古きものとして貴ばれ庭園に深山幽谷をうつしたるはこゝを以て始めとすといふ。今は往時の観はあらざるも猶堂宇宏大にして域内幽邃の霊境たり。道隆の墓は其の後にありと。徘徊しばしやがて辞して再び坂を急ぐ。
左に尊氏の邸趾に建てられたる長寿寺あり。其の西側に尊氏の塔ありて屢々旅客の為に災害に遇ふ事彼の高時と同じなりときく。いといと心地よし。
右に山内管領の屋敷跡あり。其の後方には時頼が閑居のあと最月院あり。墓は其の門前なる田圃の間断草離々たる裡にありといへど見えず。只勤倹にして平民的なる大政治家のおもかげを慕ひ謡曲鉢の木など回想しつゝ打ち過ぐれば左に五山の第四なる浄智寺あり。昔縁切尼寺といひし東慶寺あり。何れも木の間に遥拝しつかくて漸く円覚寺につきぬ。
五山の第二蒙古襲来の翌年時宗の建立せしものにして開山は仏光国師祖元禅宗円覚寺派の大本山なり。総門に瑞鹿山と題せる額は後光厳帝の宸筆にして大なる山門の額園興聖禅寺とあるは花園天皇の宸筆に係ると。打ち仰ぐもいとゞかしこしや。山腹に北条貞時の鋳造に係る洪鐘あり之を撞けば其の音壮厳にして山鳴り谷応へ余韻嫋々として尽きざること縷の如くにして亦鎌倉の一名物たり。舎利殿は鎌倉時代唯一つの遺構にして宋式建築法を見るに足る。今は保護建造物の一となれり。後に北条時宗の祀れる堂あり。額に「あだなみはふたゝびよせずなりにけりかまくらやまのまつのあらしに」と記せるを読み終りぬかづいて去る。
もと来し坂を下りて白旗神社を拝み師範学校の前を経て小川に沿ひて左折すれば東方一面四町四方許りの畑地は頼朝の館趾にして土人はこれを頼朝屋敷といふ。其の北の山を大倉山といひ頼朝の墓は其の南方の中腹にあり。高さ五六尺苔むし蔦かつら這ひまじり空しき昔を払ふ山風に胸せまりて涙ぐまれつ。途に手折りし野菊の一枝を手向けつゝ一礼して出づ。右の方細き坂をのぼりて一二町行けば岩窟内に築ける二つの墓あり。西なるは大江広元東なるは島津忠久の墓なり。こは二氏の後裔島津毛利両家の修理によりて頼朝の墓よりは完美せり。
其の南滑川を隔てゝ大御堂谷を見下す。こゝは頼朝が最初に建立せし寺なる勝長寿院の旧跡にして実朝も政子も此処に葬られしといへど今は殿堂の影なきのみか両人の墓すら分明ならずといふ。こゝにも栄枯のことはりをはかなみつゝいよいよ畦道を辿りて鎌倉の宮に詣ず。
明治天皇の御筆なる鎌倉宮の額を拝し石階を登れば拝殿本殿共に我国古式によりて建てられたれば素朴にして清麗我等をして思はず襟を正さしむ。黙礼して左の方に進めば二つの小社あり。一つは忠臣村上義清一つは官女南の方のなり。案内を求めて社後なる土牢を拝す。口狭くして内広く而かも下の方開きたる土窟なれば暗澹として陰風顔を襲ふ。往事を追懐すれば堪えぬ思ひに皆々悵然として語なく只暗涙に咽ぶのみ。二三丁を隔てゝしづまります御陵及び親王御乗馬の木像を拝し後の思ひ出にと絵葉書を求め等しつ滑川にそふて長谷に向ふ。
日は早西にかたむき電灯さへつきたれば暮れぬ程にと急ぎに急く。
北条氏の菩提所日蓮上人の辻説法をなしたる所比企能一の屋敷跡を左右に眺めながら下馬橋に至り電車にのりて二十分許りにして長谷に着す。市街を北に行けば大仏は木立の中に露座す。大慈大悲の相を備へて衆生を済度せんとする円満の相好は我国大仏像中尤も優秀なるものといふ泰時の建てたるものなるが明応四年八月十五日由比が浜の海水激揚して大仏の堂を破る。その後仏殿を建つる事なくてかくは露仏せるなりといふ。記念の絵葉書を求むるのいとまもなく長谷観音に走る。市街の西端にあたる山腹にありて坂東巡礼所の第四なり。石段を曲折して登れば堂に達す。背に観音山を負ひ見渡せば長谷の市街にして由比葉山の長汀曲湾寸眸の中に集り眺望絶佳されど感興する事僅かに二三分に過ぎず。再び電車に飛びのり五時二十五分の汽車にて横須賀行に乗り六時十分下車三浦屋に投宿す。
十一月十五日
午前五時半起床、少量の濁水に眼を清めんとて反って不快を覚ゆるもの多し、七時半宿を出でゝ元町なる一小丘に昇る、横須賀市の全景を望むることを得るなり。西南方にあたりて遥に富士の頂をのぞむ。真白に雪を頂けるけだかき姿、昨夜来の不快感一時に洗ひ去られしを覚えたり。丘の西方は即ち横須賀海軍工廠にして、今しも増築中の比叡艦眼下に見おろされていと壮感なり。起重機を装置して種々の工事を進めつゝある人々も見るからに勇まし、排水量は二万六千噸、当月二十一日を以て進水式を挙行する筈なりと、丘を下りて海軍工廠に向ふ、 此度は比叡艦を眼上にながむ、更に雄大なり。其傍に御座所ならんとおぼしきものいと厳にしつらひつゝあり、二十一日には陛下の行幸を仰くものならん同日の壮観そゝろに忍ばれたり。
横須賀高等女学校長北村氏の御尽力により軍艦宗谷に案内さる。こはもと露艦ワリヤークを修繕したるものにして日露戦役の捕獲艦なり、六吋砲十二門、三吋砲二門、速射砲四門、其他魚形水雷の設備もあり、器械室、司令塔、海図室など数多案内せらるゝうち、特に興味深からしめしは探海灯なり、此探海灯は二万五千色にしてよく三哩路を輝しうべしと、これぞ闇路を輝す唯一の灯にして暗夜に波高き海上の光景うたゝ眼前に躍如たるを覚えたり、総乗組員は六百名、十二月四日頃出港、豪州辺に航海するなりと、扨て造船所に於ける重なる工場は、船渠船台、鉄船製造場、鋳物場、船具製造場にして其他倉庫石炭庫等あり。これらは何れも瞥見して過ぐ。工廠を出でしは時すでに十一時、汽車の時間におくれじと一目散にかけつけて辛うじて乗りこむことを得たり。これより半日は汽車の旅、静岡さして進むなり。折から曇りし空模様に心をなやますことの多かりしにつけても、更に富士の高嶺はけだかくぞみえたりける。
十一月十六日
まだ明けやらぬ空の月かげほのかなる午前五時、こゝをいでゝ名古屋へと向ふ。
窓外いつしか白みしに、ふとみれば富士は今日も秀麗の姿してわれらを送れり。
松原つゞき海見えて行きかふ舟のかげもよき海岸をやうやう遠くはなれて、午前十一時、名古屋に着く。十数日の前こゝをよぎりしその折の感、けさまた今日の今の想皆人さまざまなり
のりかへて直ちに発車、再び亀山にてのりかへ、午後三時五十一分、温容変りなく嫩草小に迎へられて勇気いやましぬ
予定以上の活動して、見聞をひろめ 智識をまし、健康いよいよ増進せしこの行に一言たゞ成功とやいはまし
帰来こゝにこの記をつくる (了)