「ぶと」とは、一体何でしょう? 平城遷都1300年という節目を迎えた奈良には、「ぶと饅頭」というお菓子があります。「ぶと饅頭」は、餅飯殿(もちいどの)商店街にある萬々堂通則の銘菓で、米粉で作った餡ドーナツのようなものです。一方、春日大社には、神饌(註1)として「(ブト)」というものがあります。これは米粉でギョーザのような形を作り、胡麻油で揚げたものです。これらのイメージから、現在、「ぶと」は「唐菓子(とうがし)」(註2)の代名詞として知られています。このページでは、現在もなお神饌や銘菓として知られる「ぶと」について、文献史料を用いて詳しく検討していきたいと思います。
文献史料にみえる「ぶと」(、、伏菟)の製法・形状などを探るにあたり、注目される記述が、『和名類聚抄(わみょうるいじゅうしょう)』、『伊呂波字類抄(いろはじるいしょう)』、『類聚雑要抄(るいじゅうざつようしょう)』、『朝野群載(ちょうやぐんさい)』、『厨事類記(ちゅうじるいき)』に見られます。
まず、承平(931〜938)年間成立の『倭名類聚抄』十六レ餅には、以下の記述があります。
魴切韻に云わく、部斗二音、字亦たに作る、和名布止、俗に云う伏菟、
油で煎った餅の名也、
( 魴切韻云、部斗二音、字亦作、和名布止、俗云伏菟、
油煎餅名也、)
「ぶと」の初見となるこの史料では、「」を「ブト」と音読し、「和名布止(フト)」と記載しています。「ぶと」については明らかではないのですが、「唐菓子」と括られる他の菓子類の中には、もともと日本で作られていた「菓子」に唐風の名称を付けたとする説があるものもあります(嵯峨井 2005→註3)。さらに、「」は「俗に伏菟」ということもわかります。兎が伏せた形ともいわれますが(嵯峨井2005)、本当のところはわかりません。
また、「煎」は「イル=水気がなくなるまで煮詰める」、または「センジル=液体で煮出す」と読むことができ、油を用いた「ぶと」の調理法を推測する手掛かりとなります。
次に、橘忠兼が著し天養元年〜治承5年(1144〜81)ごろに成立したとみられている『伊呂波字類抄』「不・飲食」に目を移すと、以下のように記されています。
フト 亦たに作る、油で煮た餅也。 ・竜舌・伏兎已上同俗之を用いる。
(フト 亦作、油煮餅也。 ・竜舌・伏兎已上同俗用之。)
ここでも「フト」とあり、製法については、「油で煮た餅なり」とみえることから、やはり「ぶと」餅を油で揚げたことがわかります。
『類聚雑要抄』巻第一の保延2年(1136)12月「内大臣殿廂大饗差図」には、次のように記されています。
(前略)
菓子八種。
餅。四十八枚。各長八寸。弘二寸六分。厚一寸。三並十六重。
伏菟。廿四枚。各長八寸。弘二寸六分。厚一寸。三並八重。
。丗二枚。各長八寸。弘四寸。太五分。二並十六重。
(後略)
ここから、「ぶと」は「餅(モチ)」および「(マガリ)」と並び「菓子」として認識され、その他「大柑子・小柑子・橘・栗・串柿」と共に「菓子八種」のひとつに数えられ、盛りつけられていること、そして、行事食として寸法を整えていたということがわかります。
また、『朝野群載』七公卿家の大治2年(1127)正月日「御斎会加供解文」には、法会における「加供」=御供物としての「ぶと」をみることができます。
左大臣家
奉送八省御斎會加供事
合(略)
菓子
伏菟
餅 栗
柿 大柑子
小柑子 橘
(略)
右奉送如件。
大治二年正月日 案主肥後掾中原盛尚
同様の記事は天承2年(1132)にもあり、「ぶと」は、法会においても「菓子」として用いられたということがわかります。
一方、鎌倉時代成立の『厨事類記』には、「フトハ。ツネノゴト。」という一節があります。これには、調理法などは当然のように省略されていることから、「ぶと」が、当時ではなじみ深いものとされていたことがうかがわれます。しかし、これは「ぶと」の一般の人々への浸透を直接に示す証拠とはなりえません。
最後に、現代に伝わる「ぶと」の、神饌としての製法および形状について、少しみておきます。
太田氏によると、現在「ぶと」を神饌として用いている神社には、春日大社(奈良県、・菊・柏)、賀茂御祖神社・賀茂別雷神社(京都府、)、北野神社(京都府、彩色)、静原神社(京都府、)、黄和田日枝神社(滋賀県、)、住吉大社(大阪府、)、弥彦神社(新潟県、伏兎)などがあります(太田 2005→註4)。これは、現存する「唐菓子」の中でも最多であり、古代から現代に至るまでのどこかで、「ぶと」が何らかの地位を築いたことを示唆します。
以下には、@奈良・春日大社ける「」の調製法と、A滋賀・黄和田日枝神社の「チンツクリ」についての記述を引用します。
@ 春日大社の「」
米の粉に水を加えて練り、せいろで蒸して軽く搗き、径十センチほどの円盤を二つ折りとし、半円のヘリをつまんで縄目の文を作りながらとじてゆき、これを菜種油で揚げる。同材料で形状の違いにより、二梅枝、三梅枝、高□(マガリ→註5)などがあります。(花山院 1978→註6)
↑ 春日大社の神饌ぶと・正面/側面/裏面/上下スケッチ
米を粉に挽く。挽かれた米粉は半切り(底の浅い盥状の桶)の中で湯を注いで捏ね、「しとぎ」の状態で十五個程度に固め、これを湯釜に入れて茹でる。茹で上がると今度はこれを臼で搗き、麻布に取って適当な大きさに切った後、手分けして団子の作りものを作る。(永源寺町 2006→註7)
このように、いずれも米粉に水を加えてつくる「しとぎ」を、蒸す、または茹でるなどしてから成形し、菜種油や胡麻油で揚げるという製法が共通しています。これは、『厨事類記』「八種唐菓子」の製法とも類似点をみとめられることから、古代における「ぶと」の製法を考える大きな手掛かりといえます。
以上、平安時代にみられる「ぶと」の史料をみてきましたが、史料のどこにも「ぶと=唐菓子」という記述は存在しないことがわかりました。「ぶと」は、果物・造り菓子を含んだ意味での「菓子」という認識なのです。これは、古代の「菓子」、そして「唐菓子」を定義する上で見過ごすことのできない事実です。【参照→平安時代の菓子】
では最後に、このような「ぶと」がなぜ現代にまで残ったのでしょうか? この疑問について、正しい答えや確かな根拠はありません。そこで私は、現存する神饌との関わりから自分なりに考えてみました。まずは、ぶとの独特な形状です。「お供え物」として、より神秘的で見栄えのする形が、ぶとを神饌の代表格として権威づけたのではないでしょうか。さらに、「かぶと」のような形状から、武家社会ではありがたい縁起物として珍重されたのではないかと考えます。文責 T.F
(奈良女子大学大学院人間文化研究科国際社会文化学専攻古代文化地域学コースM1)